日本基督教団 西神戸教会月報
2004年05月号
人間は、弱く小さい存在ゆえに、自分をしっかりと見つめることができずにいます。すぐに、他者に目を向け、自分の保身に走ります。自分にもそれなりの責任があるにもかかわらず、誰かのせいにしてみたり、誰かに責任を全て負わせてしまうことがありよす。それは、自分の失敗や弱さや過ちを認めることの出来ない、認めたくない弱さから来るものです。今、年金未納問題て色々騒がれている人々もそうてす。人の事ばかり言って責めて、気が付くと自分も未納だった。何とこっけいな出来事でしょう。人を責めたり、人のせいにするのは簡単です。だけど、それだけでは何も解決しません。自分をより良く生かす為には、自分の弱さや未熟さ、欠けや過ち、小ささを見つめ、そんな取るに足らない者をもこの世に生かし、多くの出会いや喜びや助けを与え続けてくださっている神様の愛と恵みに気づくことです。人を責めても、人ばかり見つめていても自分は成長しません。なぜなら、自分をより良く変えるものは、見つけられないからです。もっと、ありのままの自分を見つめて、人のこととしてでなく、自分の事として物事を成してゆかなくてはならないのです。 イエスは、他者(イエスの愛する弟子)の事ばかりを気にしている弟子のペトロに対して、「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と語られました。ぺトロにとって大切なことは、「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」と聞くことではなく、まずイエスに従うことなのです。イエスの愛する弟子がどうなるは、イエスと彼との関わりであって、ペトロが気にする事ではないし、気にしてもどうなるものでもないのです。復活の主に出会った今、ベトロに大切な事は、イエスを愛し、イエスより委ねられた働き(「私の羊を飼いなさい。」)をしてゆく事なのです。イエスが言われた「あなたは、わたしに従いなさい。」の「あなたは」は、わたしたちに語りかけられている言葉でもあるのです。自分の責任を見つめずに、人の事ばかり気にして、人をうらやみ、人を憎み、人に責任転嫁をしてしまう、人の弱さに語りかけられているのです。 「今、わたしたちは、神様に生かされている事の大切さを知り、生かされている自分の責任を見つめ、その責任を共に負ってくださる主イエスの愛に出会うことで、生きる勇気と希望と力が湧いてくるのです。主がわたしに何をしてくださったのか。何を与えてくださったのか。何を求めておられるのか。その一つ一つを人の事としてではなく、自分の事として受け止めてゆければ幸いです。なぜなら、主の言葉は、私たち異なった状況にある一人ひとりに、具体的に直接語りかけられる言葉となるのです。 |
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