日本基督教団 西神戸教会月報
2004年07月号
わたしたちは、自分の存在が何によって今あるのかという事をゆっくり考えてみたことがあるでしょうか。今ここに存在しているのは、当たり前の事で、誰の何の世話にもなっていないと思っているのではないでしょうか。本当に当たり前のことなのでしょうか。そのことをしっかりとわきまえねば、驕り高ぶり、この世の主として自らを思い込み、多くの支えを蔑ろにして全ての関係から断たれてしまうのです。 天地創造の始めより人間の罪は、全て人との関わりから生じています。神様がせっかく与えてくださった大切なパートナーをも平気で自らの保身のために犠牲にしてしまうのです。人間は、神様より互いに助け合い、補い合い、愛し合うふさわしいパートナーとして他者が与えられていたにもかかわらず、いつの間にか、その他者を比較する相手と見なし自らを高め、他者を蔑み、自らを引き上げ、他者を傷つけ、自ら守り、自らの思いどおりにする為に他者を無きものとする様な生き方をしてしまっているのです。人間の悲しい罪の現実が突き付けられるのです。人は、一人では生きて行けません。その事実に気付くこともなく、わたしたちは過ごしてしまっているのです。そんな自分本位の人間を神様は、なおも愛し続け、大切な独り子をも与えてくださったのです。そこにしか、人を生かす道はないのです。今の自分がどれ程多くの人によって助けられ、支えられ、愛されてきたことでしょう。愛する家族が与えられ、知人・友人が与えられ、同じ荷を負う同労者が与えられ、共に祈りを合わせる信仰者が与えられ、今までの導きをしてくれた多くの恩師が与えられたからこそ今があるのです。さらには、それら全てを与えてくださった神様が共にいてくださったからこその歩みなのです。 今生かされているのは、全ての人が、神にとって価値ある存在としてです。その事を知る者のみが、神様によって生かされる命に気付き、その用い方をわきまえる事ができるのです。パウロは、自らの命の意味を知り、自らを神に捧げて歩みました。とんな中でも全てを神の恵みとして受け入れ、信仰という誰にも取り去ることの出来ない宝を胸当てとして歩み抜いたのです。わたしたちは、神様から与えられた大切なかけがえのない命を間違って用いてはいないでしょうか。 |
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