日本基督教団 西神戸教会月報
2004年09月号
わたしたちは、日々神様に許され、愛され生かされています。わたしたちは、この許されいる命の営みの時をどのように歩む事を望んでいるのでしょうか。わたしたちは、与えられている人生を良くも悪くも出来るのです。限られたほんの僅かな一時を大切に受け止め、どのように生きていくかが一人ひとりの責任としていつも問われているのです。 神様に与えられた生命ゆえに神様の御心によって生きて行くことが本来の命の管みではないでしょうか。しかし、わたしたちは、いつの間にか自らが命の主となり、自分の思いにふさがれ、神様の御心から遠く離れて歩んでしまっています。毎日のようにニュースや新聞で伝えられる事件や事故は、そんな人間の姿をあらわに表しています。人は自分の事だけでいっぱいになってしまうと他者の事に思いはいたりません。他者が自分にとってどれ程大切な存在であるのか、ということを考えもせず、ただ自分にとってプラスかマイナスかという価値観に捕らわれて、他者をも自分の所有物であるかのように扱ってしまうのです。 神様は、わたしたちを生きるものとしてくださる為に、自らの独り子をも惜しまず差し出してくださいました。そして、この世にはなかった愛を示してくださったのです。人がその愛によって生きる時、神様に与えられている命の本当の喜びに出会うのです。その出会いを経験しない者は、人を愛すことの喜びを見いだすことが出来ないのです。イエス・キリストは、"最も大切なことは、唯一の神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することである。"と語られます。命与えられ生かされているわたしたちは、あるがままで愛され続けています。そんなうれしいことはありません。この世の価値観の中でどんなに人に批判され、否定されたとしても神様は愛してくださっているのです。その愛に触れる者は、自らを神様のため(人のために)に用いることに心を向けるのです。たとえどんなわたしであったとしても、神様の愛に支えられ、あるがままの命の中に輝きを見いだす事ができるのです。 神様と向かい合い、自らの歩みをしっかりと見つめ直し、吟味し、この世における自らの命の責任と荷を負うことが大切です。自らの命の責任、荷を負う者は、他者の弱さや荷に心を向け、共にあるいは互いに重荷を担うものとされるのです。わたしは、この世に生かされている、たった一度しかない、かけがえのない大切な今を喜びと希望に満ちた時としたい思います。様々な嵐の中でも、神様と人と共に生きる事のできる幸いこそが生きる力となるのです。今、目の前にいる人を愛し、共に生きる喜びを感じているでしょうか。そこから何かが始まるのです。時のある間に神様と人に対してできることを精一杯しておきましょう。 |
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