日本基督教団 西神戸教会月報
2004年11月号

                   
涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
《詩編126編5〜6節》


 実りの秋がやってきて、様々な収穫物を身近なところで見ることができます。しかし、今年は、たくさんの災害が起こり、せっかく育てたものが、収穫できなかったところもたくさんあります。一生懸命育てたものがダメになってしまった時、その悲しみは譬え様のないものです。それは、自らの生活をかけ、汗や涙を流しながら一生懸命、丹精込めて育てているからこそです。適当にあるいは、いいかげんに育てていれば、ダメになっても何の痛みも感じないでしょう。それは、できたら儲け物というような働きとなっているからです。生きるという喜びを得るためには、どちらの歩みが良いでしょうか。

 聖書は、「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。」と語ります。種を心を込め、涙を流しながら蒔いていく時、喜びの歌と共に刈り入れることができるのです。一生懸命に取り組む事によって、その後の出来事は喜びで満たされるのです。イエスの語る「種を蒔く人の譬え」《マタイ13:3〜8・マルコ4:1〜9・ルカ8:4〜8》においても、種が実を結ぶのは、良い土地に蒔かれたものです。それ以外のところのものは、育たないのです。良い土地にするには、大変な努力が必要です。土地を耕し、それぞれに適した土にしていかなくてはなりません。土地が肥え過ぎててもやせ過ぎててもだめなのです。その花や木や野菜にあった良い土地でなくてはなりません。今年も幼稚園でサツマイモの苗を植えて育てました。ある苗は、台風の塩害で葉っばが枯れてしまったので、早くに掘りました。そのイモは、時期が早かったのであまり大きくありませんでした。しかし、他の場所に植えたイモは、同じように塩害で枯れそうになりましたが、しっかり根付いていたので、枯れずに葉っぱが元気になり、予定どうりの日に掘ることができ、大きなイモ、食べ頃のイモがたくさん掘れました。しかし、同じ場所で同じ日に掘ったものでも、土の肥え方によって収穫に差があったのです。大きなイモがあった所と小さいイモが一杯取れた所と様々でした。子どもたちは、自分たちで植えて世話をしたからこそ、その差にこだわらずみんなが収穫の喜びを得ることができました。

 わたしたちに与えられた大切な命を一生懸命輝かしていく時、どんなことにも喜びを見出すことができるのです。生きることは、苦しいことも悲しいことも味わうのです。しかし、それは決して無駄なことではなく、とても大切なことなのです。どんな中でも希望を失わず歩む事によって、神様による喜びと出会うことができるのです。
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