日本基督教団 西神戸教会月報
2005年02月号

                   
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。《マタイによる福音書14章22節》

イエスはすぐ彼らに話しかけられた。r安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」《27節》

イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われた。《31節》

 2005年も早や一カ月が過ぎ、時の流れの速さに驚かされます。そんな中で日々を神様に守られ、今の時が迎えられている事を感謝します。せっかく与えられている命をいかに大切に、充実したものとして過ごしていけるかによって、日々の歩みが変わってきます。いつも、文句を言いながら、しかめっ面や険しい顔をして過ごすのか。それとも、何事にも感謝し、喜びに満ちて過ごすのか。 みなさんは、どちらが良いですか。その歩みは、わたしたちの受け止め方で違ってくるのではないでしょうか。神様を中心にもの(物・者)を見るか、自分を中心にしてものを見るかということです。

 わたしはロ癖でどうしょう」とよく言います。でも、「どうしょう」と言っていても物事は解決しません。それが解っているので、ロではそう言いつつもその間題(課題)と取り組んでゆくのです。そして、取り組む中で、結果が良かれ悪しかれ問題は解決していくのです。その時は過ぎてゆきます。その時をどう受け止めるかが大切です。

 イエスは、弟子たちを強いて旅立たせ困難な歩みの中へ導かれます。この旅立ちでイエスは、困難・困窮に出会い、闇に包まれた不安と恐れの中にいる弟子たちの所へすぐに湖の上を歩いて来てくださいました。しかし、彼らはすぐ側に来てくださったイエスに気づかなかったのです。そんな弟子たちにイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語られます。また、ペトロがイエスからよそ見をして、溺れそうになった時にもイエスはすぐに手を伸ぱして助けてくださったのです。

 弟子たちは、困難を経てイエスを「本当にあなたは神の子です。」と告白するに至ります。主の強いられる歩みは、主の計画であり、わたしたちのための最善の道となるのです。ただし、その道は、わたしたちの思っている・求めている安全や安心、楽で喜ばしいものではありません。たとえ、険しい道、試練が与えられたとしてもそこでより豊かなものを主は必ず備えていてくださるのです。そのことを信じて歩み行く事ができる力こそが、信仰の歩みです。自分の好みや自分の思いによって、ものを見て判断するのではなく、与えられている現実の中で神様からものを見てゆくことが大切なのです。わたしたちは、主が共にいてくださる限り「恐れることはない」のです。

  2005年という新しい年を迎え歩み始めました。わたしたちは、この一年の月日をどんなふうに歩んでゆくのでしょうか。2004年を振り返る時、世界的に、日本国内で、兵庫県内で、身近な生活の中で様々な出来事と出会い、恐れと不安、苦しみと困難の中をどれだけ多くの人が経験した事でしょう。「今年こそは」という思いから始まる一年であっても、何時如何なることがわたしたちに訪れるかは、誰にも分かりません。しかし、どんな事が生じたとしてもその歩みの中で、神様よりかけがえのない命が与えられ、生かされている喜びを経験していくことは、とても大切なことです。絶望で途方に暮れるのではなく、希望を持って生きてゆけることは、生きるための大きな力となります。わたしたちは"今"神様に豊かな命を与えられ生かされています。その事実を受け止めて、大切にその生命を用いて行くことが神様に生かされている喜びにつながります。
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