日本基督教団 西神戸教会月報
2005年03月号

                   
3 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
《マタイによる福音書27章42〜43節》

 2004年度もあと少しで終わろうとしています。今、一年間を振り返る時、本当に色々な出来事のあった年度であったことを実感いたします。台風や地震や大津波等が国内外で起こり大きな悲しみと困難が多くの人を襲いました。今もなおそのただ中を生きる人々がいます。わたしたちの生きる神戸においては、大地震より10年の時"が過ぎ、今一度""あの日・あの時""を覚えながら、今を見つめる時が与えられました。教会においても、様々な事情で多くの人が教会に来ることができなくなりました。そんな中にありつつもわたしたちは、今の時を神様から与えられています。わたしたちは、生きるということにおいて苦しみ、悲しみを大なり、小なり経験するのです。そのことを避けては歩めないのです。その歩みの中でわたしたちが、誰に出会い、何によって生きるかでその人の生き様は変わるのです。わたしたちは、どんな中にあっても失うことのない神の存在を信じて生きることができます。わたしたちは、世の人々が様々な出来事の中で「神などはいない」と言ったとしても、共に生き歩まれる神を信じることができる者なのです。このことは、わたしたちが生きる、生かされる中でどれほど大きな希望と力になることでしょうか。今の時まで、共に歩んでくださった方は、わたしたちを見捨てたりしないのです。わたしたちが離れて行くことはあっても、神の側からは突き放したりされないのです。受難節の日々を歩む時、主イエス・キリストが人に裏切られ、蔑まれ、罵られ、侮られながらも、あえてそれら全てを受け止めておられる姿において、人のずるさや醜さを思い知らされます。そんな人をも主は、十字架の上においてなおも許し、愛し続けてくださったのです。

 わたしたちは、自ら主を拒絶し、離れ去っているにもかかわらず、そのことに気付かず、自分流の神を創造してしまっているのです。そこにおいて、神の御心は理解できず、見当違いの歩みをしてしまうのです。地に平和を与えたもう神を知りながら、人は争いを止めよラとしません。人を、神を信じることができないからです。互いを認め、共に生きる存在とすることができないのです。なんと悲しい事でしょう。神を信じ、人を信じて歩めるなら、新しい世界が開かれて行くのです。様々な囚われの中でもがき苦しむ者を主イエスは、十字架の死をとおし、解き放ってくれるのです。神の御心に全て委ねる事ができた時、恐れるもの(者・物)は何もなくなるのです。
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