日本基督教団 西神戸教会月報
2005年05月号

                   
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて
あげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたし
に学ぴなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
《マタイによる福音書ll章28〜29節》

 2005年度も神様の守りの中、歩み出すことができ、早や一ヶ月が過ぎました。
神様を信じることで、日々のなにげない生活の中に神様の恵みを感じることができる幸いを感謝いたします。わたしたちにとって神様の存在は、いったいどんなものになっているでしょうか。神様を信じることで辛く、苦しい思いをしたことがあるのではないでしょうか。実際イエスと共に生き、歩んだ弟子たちも様々な苦しみ恐れの中を歩みました。しかし、彼らは、神様からの助け手である聖霊によって、強くされ歩み出しました。彼らは、イエスの十字架を前に逃げ出し、イエスなど知らないとイエスを捨て去りました。そんな弟子たちを愛し続けてくださる神様の愛は、彼らを新しく生かしてくださいました。イエスに顔向けのできないことをしたにもかかわらず、彼らを復活の主イエスは、許してくださったのです。そんな愛に支えられて、弟子たちは二度と逃げる歩みはしませんでした。神様と共に生きることは、決して辛く苦しいものではなく、それぞれの弱さをさらけ出しながらも生きることのできる、うれしく喜ぱしいものなのです。

 聖書は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と語ります。イエスのもとへ集う時、人は休息を得るのです。なぜなら、この世を生きる苦しみや悲しみ、さらには困難の中を歩む者が、主イエスのもとで着飾っているたくさんの重たい装いを下ろし、ありのままで生きる道が与えられるのです。神様は、わたしたちに負いきれない重荷を負わすことはされないのです。この世を生きる苦しみを主イエスは、共に負ってくださるのです。人は一人では生きていけない事を様々な中で教えられるわたしたちは、ひとりよがりの自らに気付かされるのです。この世において人は、何かを守ろうとして、勝ち取ろうとして、様々な争いを生じさせます。また、自分に与えられている以上のものを望み、必死になって追い求めて、疲れ果ててしまいます。そんな時、主の言葉により、今のありのままで良いことを示され、その中で輝く命に出会うのです。人は世に生きる時、何を追い求め、何を得ようと生きているのでしょうか。主のもとに立ち戻る時、それらのために苦しむことのないことに気付かされるのです。世で人はあまりにも贅沢でわがままなものであることを知るのです。主の招きは、全てを無にして歩み出す喜びを与えてくれます。
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