日本基督教団 西神戸教会月報
2005年06月号

                   
体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、
その暗さはどれほどであろう。
《マタイによる福音書6章22〜23節》

 目は口ほどにものを言う」とよく言われますが、目というのは、様々な表情を見せます。わたしは、幼稚園の子どもたちと一緒に過ごす中でいつもそのことを思わされます。髭を生やし、どこのおじさんと思われるようなわたしの顔を見て、初対面の子どもたちは、少なからず恐れを感じています。しかし、時間と共に子どもたちは、わたしを受け入れてくれるようになります。その時にわたしが一番大切にしているのは、目で笑うことです。子どもと目が合う時に安心を与えられるようにと願っているのです。4月から始まった228人の子どもとの歩みも今では、心通う生活となっています。目というのは、心を表す大きな役目をしているように思います。顔は笑っていても目が冷ややかな人の顔を見る時、人は違和感を感じざるを得ません。心から喜びに満ちなくては、目は笑うことができないのです。子どもと向き合う時、真剣に語れば必ず子どもたちも真剣に聞きます。それは、目が真剣だからです。「人の話を聞く時は、話す人の目を見なさい。」と言われますが、話す人の目が泳いでいると聞く側も聞き入ることができません。それだけ目というものは、大切な役目をもっているのです。

 イエスは、「目が澄んでいれぱ、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」と語りました。「澄む」は、《単純・素朴・清い》《寛大・寛容》等という意味をここでは持っています。また、「濁る」は、《不純》《物惜しみ・欲深い・けち》等を意味しているのです。神様から与えられた命を大切に輝かす事によって、は目に大いなる光が与えられます。どんな時であっても喜びと希望に満たされ、目に輝きが与えられるのです。しかし、神様から離れてしまう時、命の輝きを奪われ、この世の様々な思いによって、目が濁ってしまうのです。

 わたしは、この月報の発行日に誕生日を迎えます。神様に命を与えられ、今日まで様々な出会いの中で歩む事が許され心より感謝をしています。うれしい日々ぱかりではありませんでした。苦しい、悲しい日々も多く経験してきました。しかし、そんな中でも神様の豊かな恵みをたくさん与えられてきたことに気づくことができました。そして、今の命の育みが多くの愛する人々に囲まれなされていること以上の喜びはありません。いつまでも、神様につながり続けて目の輝きを失わないようにと願います。
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