日本基督教団 西神戸教会月報
2005年07月号
イエスを取り巻く人々の言葉や行動を見ていると、人間の心の奥底が神の前でさらけ出されている事に気づかされます。わたしたち誰もが持つ感情が示されています。イエスは、神によってこの世に遣わされた大切な独り子でありました。ゆえに神に与えられた役割を果たすために、世を恐れずに成すべきことを成し歩みを進めて行きます。そのため、その歩みを理解できない人々、認めたくない人々にとっては、邪魔でしょうがありませんでした。しかし、一方では神の愛によって、多くの人々がイエスによって許しと救い、癒しと慰めを得ることができたのです。今まで、人の世において、自分ではどうすることもできず苦しんできた人々は、神の愛の光により、新しく生きることができたのです。自らの生まれや育ち、仕事や病気、習慣や生活状態等によって、この世から弾き飛ばされて、苦しみや悲しみや痛みを負わざるをえなかった人々がイエスの言葉と行いによって生き直すことができたのです。その人々にとってイエスの歩みは、神の愛に満ちたもの以外の何物でもないのです。そこに生じてくるのは、喜びと感謝、そして神の愛への応答であります。多くの人がイエスによって、神を信じて生きる道を得たのです。そのことを示すかのように徴税人マタイは、イエスと出会い、今までの生活を捨ててイエスに従いました。今まで自分が大切にしてきた生活の手段、習慣、価値観等様々な物を捨てて歩み直すのです。残念ながら、そんなすぱらしいことを示されているにもかかわらず、そのことを知ることの邪魔をしているものがあるのです。それがここに語られている事です。 ファリサィ派の人々は、イエスの存在をある意味では認めざるをえませんでした。しかし、ねたみやひがみというものは、正しい判断が出来ない状態を作り出してしまいます。なぜなら、自分の感情だけに囚われて、そこからしか考えられなくなってしまうからです。それゆえに、イエスのマイナス部分を見つけるのに必死になり、何とか否定できるものを探すので す。彼らは、そのためにイエスがこの世において語る事や行う事は、神のみ心・ご計画としてなされているのに、認められなかったのです。 病気で病院に行くには、自覚が必要です。病気を認めたくない人、あるいは健康な人は、病院には行くことはありません。それは、病気を直す必要がないからです。しかし、本当に健康なら良いですが、もし病気であるなら、手遅れになってしまうことでしょう。わたしたちは、神の前で自らのことを正しく理解しているでしょうか。 |
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