日本基督教団 西神戸教会月報
2005年09月号
ここで語られるイエスの言葉によって、わたしたちは、自らの歩みを再検討させられるのです。ここでは、復活という出来事をこの世的に考えているサドカイ派の人々に対して語られる言葉です。この世の範疇で物事を考えていても聖書や神の力は分からないのです。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」とイエスは語ります。また、パウロは「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」と語っています。復活という出来事は、私たちの考えているようなこの世的なものではなく、神によって新たに生かされる出来事なのです。そのことを何がどうなると細かいことを考えていても分からないし、そんなことを知る必要も無いのです。ただ全てを神に委ねれぱ良いのです。そこから全てが始まります。主イエスを復活させてくださった神は、わたしたちの終わりの時にも責任を持ってくださるのです。そう信じることができれぱ、"今""生きていることがい"かに大切であるかがわかります。神様を見当違いの方向に探していてはそのことに気づかないのです。 神様は{生きている者の神」なのです。神様は、あらゆるもの(者・物)に命を与えて、それを支え、共に働かれるのです。神様の手にかかると死をも越えて命に出会うのです。神様によって、全てが生かされ、輝きを与えられるのです。どんなことも空しくなることは無く、全てが命を受け、歩みゆけるのです。悩み・苦しみ・病・絶望等も「生きている者の神」に出会うことができれば、命を受け生きる者となるのです。どんな中にあっても神様を信じ続けて歩みゆき、命の真の輝きを得たいものです。 |
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