日本基督教団 西神戸教会月報
2005年09月号

                   
イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。…中略…『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
《マタイによる福音書22章29〜32節》
わたしたちは、日々の生活の中で神様のことを本当に理解しているでしょうか。それはおそらく無理だろうと思います。何故なら、わたしたちが知っている神様の業や働き等は、ほんの一部分に過ぎないからです。それをあたかも全部知り尽くしたかのように神様に向かうとき、大きな間違いを犯してしまうのです。人はいつも自分の土俵で相撲を取りたがるので、それ以外の事柄には弱いのです。その弱さを自覚することの中で、神様のなさる沢山の出来事と出会うことができるのです。そして、それらのことを通して、信仰のすばらしさを知るのです。神様を信じることで、越えることのできないようなハードルも越えることができるのです。

 ここで語られるイエスの言葉によって、わたしたちは、自らの歩みを再検討させられるのです。ここでは、復活という出来事をこの世的に考えているサドカイ派の人々に対して語られる言葉です。この世の範疇で物事を考えていても聖書や神の力は分からないのです。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」とイエスは語ります。また、パウロは「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」と語っています。復活という出来事は、私たちの考えているようなこの世的なものではなく、神によって新たに生かされる出来事なのです。そのことを何がどうなると細かいことを考えていても分からないし、そんなことを知る必要も無いのです。ただ全てを神に委ねれぱ良いのです。そこから全てが始まります。主イエスを復活させてくださった神は、わたしたちの終わりの時にも責任を持ってくださるのです。そう信じることができれぱ、"今""生きていることがい"かに大切であるかがわかります。神様を見当違いの方向に探していてはそのことに気づかないのです。

 神様は{生きている者の神」なのです。神様は、あらゆるもの(者・物)に命を与えて、それを支え、共に働かれるのです。神様の手にかかると死をも越えて命に出会うのです。神様によって、全てが生かされ、輝きを与えられるのです。どんなことも空しくなることは無く、全てが命を受け、歩みゆけるのです。悩み・苦しみ・病・絶望等も「生きている者の神」に出会うことができれば、命を受け生きる者となるのです。どんな中にあっても神様を信じ続けて歩みゆき、命の真の輝きを得たいものです。
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