日本基督教団 西神戸教会月報
2005年11月号

                   
「キリスト・イ土スは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たるものです。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
《テモテへの手紙一1章12〜17節》

 わたしたちは、神様によって命を与えられており、神様の計画の中で歩まされています。しかし、その歩みに気付かずにいることが多いのです。もうすぐ迎えようとしているクリスマスの出来事の中でも、そこに登場する一人ひとりが大切な役目を神様から与えられて、その出来事に関わっているのです。イエスがこの世に命を受ける時何故、馬小屋での誕生となったのでしょうか。そこには神様の大いなる計画が働いていたのです。そのことが生じるためには、多くの人々が知らないうちに用いられていたのです。そのことは、決して無駄なことではなく、とても大切なことなのです。わたしたちも自分の好むと好まざるとに関わらず、神様のご計画の中で用いられているのです。

 使徒パウロは、自ら「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」(1:13>と記しているように、キリスト者を迫害する熱心なユダヤ教徒でありました。しかし、彼は復活の主と出会い新たな命を受けてキリスト者として歩み出したのです。彼にとっては、思ってもいなかった歩みです。キリストに出会ってからの彼は、神の愛の中で許しを受けて、その愛に応える歩みをなしました。彼の歩みは、全て神様から与えられたものであったことに、彼は気付くのです。そして、自ら、が神のご計画の中でなすべき役割を見出してゆくのです。ユダヤ人にではなく、異邦人に対して熱心に宣べ伝えてゆくのです。罪人である者に対する神の愛と許しを身をもって示してゆくのです。

 わたしたちは、それぞれ自分にしかできない役割があるのです。それは、神様から与えられていることであり、わたしたちの持ち物によるものではありません。神様が与えてくださっている賜物をしっかりと神様のために用いてゆく時、その賜物は豊にされるのです。神様は、罪を繰り返し神様の思いに応えられない、わたしたちをなおも愛し続け、許し続けてくれるのです。その愛の現れが、イエス・キリストの誕生であり、十字架での死と復活の出来事なのです。そのことを信じることのできる人が、神様の思いに心を寄せることができ、その愛に応えてゆけるのです。わたしたちの弱さは、信仰の弱さゆえではないでしょうか。
BACK NEXT TOP HOME