日本基督教団 西神戸教会月報
2006年1月号

                   
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
《マルコによる福音書1章14・15節》

   2006年という新しい年を迎える事ができました。わたしたちは、当たり前のように時の流れの中で生きていますが、実際にはいついかなる事に出会うかは、誰にも分からないのです。今日という日・今という時をしっかりと受け止めていくことが大切なのではないでしょうか。

 昨年2005年もうれしいことが与えられた以上にわたしたちの周りでは、様々な悲しい出来事が起こりました。自然災害や大きな事故や事件が生じ、多くの人々が悲しみ・苦しみの中を歩まねばならなくなりました。今年に入ってからも寒波によって、多くの人々が生活に困難をもたらされています。与えられている時をしっかりと捕らえて、大切な一歩を踏み出してゆくことが必要なのです。その時を逃してしまうと、後悔してもその時は戻ってこないのです。

 イエスは、自分の与えられている時をいつも考えながら歩みを進めて来ました。イエスの歩みは、クリスマスでの誕生後、律法の定めに従って神殿に行く等で何度か聖書には記されていますが、30歳(ルカ3:23)に宣教を始める時までの詳しい歩みは分かりません。マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)と記している様に、イエスが神様の働きへと本格的に歩み出すことから記しています。時を捕らえて、イエスが自ら動き出す姿を明らかにしています。先駆者なるヨハネとの出会いの時とヨハネが捕らえられてしまった時を逃しませんでした。それは、神から与えられた時であったからです。その後、十字架と復活に至るまでの与えられた3年余りの歩みを神様の御心のままに歩んでゆきました。

 わたしたちも"今"それぞれに与えられている時を逃す事なく、命を積極的に用いて歩むことが求められているのです。時は、何もしなくても過ぎていきます。無駄に時を過ごすのではなく、大切に過ごしてゆければ幸いです。

 1995年1月17日の阪神・淡路大震災より11年が過ぎました。深く大きな悲しみとの出会いの中で、わたしたちは今なお生かされ続けています。命を与えられている者として、その生命を最大限輝かしていく責任があるのです。悲しみを繰り返す世において、神様の備えられている事柄に気づき、時を捕らえて、新しい一歩を歩み出しましょう。新しい一年において、何が起こるか分からない不確かな時を歩む者として、二度と戻らない与えられた大切な時を、精一杯生きる者でありたいと思います。
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