日本基督教団 西神戸教会月報
2006年2月号

                   
 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
 《マルコによる福音書26
 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
                                       《マルコによる福音書28

   2006年になって、"あっ"と言う間にひと月が過ぎてしまいました。この月日のとらえ方は、人によって様々だろうと思います。今日までやっとたどり着いたと時の流れをゆっくり感じる人もいるでしょうし、一息に過ぎたと速く感じる人もいるでしょう。それは、それぞれの立場や置かれた状況や過ごし方によって様々だろうと思います。そのことは、すべてのことにおいて生じてくる異なりではないでしょうか。それゆえに"今、自分はどんな立場で物を考え、とらえているだろうか"ということで自ずと歩みが変わってくるのです。

 イエスは、神の子として世に来られて、いつも苦しみ悲しみ困難の中にいる人々の中で過ごされてきました。そして、そこに集まる人々を愛し、共に食事をし、いやしと慰めを与え、闇の世に希望を与え続けてくれました。今まで、人に傷つけられ、苦しめられてきた人々の痛みと悲しみを共に味わい、それを強いてきた人の過ちを指摘してきたのです。そのイエスの立っている場所と状況を理解出来ない人々は、イエスの行うことや語ることを理解することが出来ませんでした。自分の立場からしか、物を見たり、考えたりできない限り神の子なるイエス・キリストを受け入れることは出来ないのです。イエスを理解できないということは、つまり神の心を理解することなど到底無理なのです。

 上記の聖書の箇所でイエスは、一人の病気で苦しんでいる者を、イエスを信じる四人の友が、何とか癒してもらおうと連れてきた信仰の姿を見て、良しとされました。ところが、それを見ていたイエス同様に神様を信じているはずの律法学者は、彼らの持つ宗教観念や慣習や背景によって、素直にイエスの救い主なるキリストである業を認めることができなかったのです。間違っているのは、自分ではなく、相手であることが前提で物事を考えてゆくのです。それゆえに自分たちが行ってきた過ちにも気付くことができないのです。この四人は、病める友を非常識と思えるような行動を取ってまで、イエスに会わせたかったのです。その愛すべき行動を見て、イエスは良しとされるのです。ここに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)と語られる信仰の姿があります。その姿を心より喜べる者でありたいものです。
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