日本基督教団 西神戸教会月報
2006年3月号

                   
  そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
 マルコによる福音書8章29節
 ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながらペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
                                        《マルコよる福音書8章32〜33節》

  今、受難節の時期を過ごしています。これは、主イエスが十字架に歩まれる苦難の道を思いつつ、復活の喜びへと導かれて行く大切な時です。何故イエスが神の子であり、救い主(メシア)でありながら、十字架にかからなくてはならなかったのでしょうか。それは、人間のイエスへの無理解によってです。神様の御心や御計画、更には神の御業や御力を素直に認めることの出来ない人間の弱さにあるのです。どんなに側近くにいてイエスを知っている者であっても、イエスの本当の姿を理解する事ができていなかったことを聖書は教えてくれます。

 ペトロは弟子として、イエスと共に歩む中で力強く、喜ばしい出来事にたくさん出会ってきました。そのことによって、希望と勇気を受けて歩んでいました。この人こそ「メシア」であると確信していたことでしょう。しかし、ペトロにとってイエスは、自分にとって都合の良いメシアであったのです。つまり、共に歩む中で力ある数々の業に接している時には、そのことを疑いませんでしたが、一度イエスが自らの十字架と復活について宣べるに至るとそれを受け入れることができませんでした。何故なら、彼にとってそれは信じ難い、受け入れ難いメシアの姿だったからです。聖書はペトロが人の手前、イエスをわきに連れて行っていさめたと記されています。そんなペトロをイエスは、「サタン、引き下がれ。」と叱りました。神のことよりも人のことを考えている限り、本当の神様の御計画、御心を人は知ることができないのです。わたしたちの心には、いつもサタンが潜んでいます。そして、大切な時にいつも現れて、わたしたちを惑わすのです。今、何が一番大切なのかを分からなくしてしまうのです。いつも自分の思いが中心で、もの(者・物)を見てしまって、神様を悲しませてしまっているのです。わたしたちは、この世に捕らわれて、自分の経験や知る・理解できる範囲内でしか受け入れられなくなっているのです。神様のなさることは、わたしたちの考え及ぶものではないことを忘れてしまっているのです。つまり、自分の小さい世界の中に神様を入れてしまっているのです。
本来、神様の御手の中にわたしたちの存在があるに過ぎないのです。世にイエス・キリストが来てくださったことによって、闇の中に光が与えられ、死を超えて命が与えられたのです。人間の世界を超えて、神様の世界がもたらされたのです。そのことを受け入れられる人は、豊かな命に生きることができるのです。
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