日本基督教団 西神戸教会月報
2006年9月号

                   
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなに早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。
 《ガラテヤの信徒への手紙1章6節》
もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
《ガラテヤの信徒への手紙1章10節》

 わたしたちは、せっかく神様から大切なものを与えられているのに、それ以上の物を求めてしまって、本当に価値あるものがいったい何であるのかということが、分からなくなっているのです。本来神様から、生きるに十分なものが与えられ、そこにおいて、出会う様々なことによって、幸いを得るはずであったのに、それを拒否・拒絶.してしまって、わたしたちの好みで色々なものを求め、得ようともがき苦しんでいるのです。命は、神様から与えられるこの世における大切な一時です。その命を本当に生かすのは、神様のみ心によって歩むことです。その歩みの中で、恵みを数え上げることができるのです。しかし、人は贅沢になり過ぎて、神様の恵みを恵みとして受け取れなくなっています。

 ガラテヤの人々は、せっかくイエス・キリストの救いの現実に出会い、信じる者になっていたのに、他の現実に見合った者に心移りをして、イエス・キリストの十字架の救いだけでは満足できなくなってしまったのです。だから、他の教えに心奪われて、キリストの恵みの招きから離れて行ってしまったのです。何ともったいないことでしょう。彼らは、自らがその道を選択してしまったのです。神様から与えられているものから、離れ去り、自力あるいは、他力で得る幸いを求めてしまったのです。この教えをもたらしたのは、おそらくエルサレム教会の指導者たちであったと考えられています。ゆえにパウロ自身も自己を吟味する必要がありました。本当に自分が伝えているものが確かなものであるのかどうかを問うのです。そしてその大きなことの一つは、"人に取り入ろうとしているのか神に取り入ろうとしているのか"ということでありました。そして出した結論は、"もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。" なのです。キリストのみを大切にそこが自らの出発点(源)であることが明らかになります。わたしたちは、時として神ではなく、人ばかりを気にしているのではないでしょうか。そこには神の真実はありません。人を気にすることによって、神様の御心をないがしろにしてしまう恐れがあるのです。わたしたちは、キリストがもたらした本当の福音を理解しているでしょうか。
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