日本基督教団 西神戸教会月報
2006年10月号

                   
 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
 《ヘブライ人への手紙6章10・11節》

 わたしたち人間は、人を裏切ったり、絶望させたり、逆に人によって裏切られ、傷つけられ、苦しめられ、絶望することがあります。それは、まず自分が一番であるゆえに、他者は二の次になるからです。ところが、神様は、自らの大切な独り子をさえ惜しまずに人間のために与えてくださいました。そこまで愛してくださる方は、自分よ,りも他を大切にしてくださっているのです。イエス・キリストの十字架の愛はそのことを明らかにしてくださっているのです。イエス自身は、自らの体を差し出し、罪ある者のとりなしをしてくださいました。十字架の上で、痛みと苦しみと悲しみのただ中で「彼らは、何をしているのかわからないのです。」と神に祈ってくださるのです。その愛を受け入れ、信じて歩む時、人は神様への愛を人への愛として現して行くようになるのです。ただ口先だけで神様へ「愛」を語っても無に等しいことを教えてくれます。「愛」は、必ず行動へと繋がって行くのです。ゆえにその愛を行なっている者を神様はいつも顧みていてくださるのです。

 神様を信じるということは、その絶対的な愛をもって臨んでくださっている神様を信じるということなのです。その神様を信じる時、絶望で終わることはないのです。逆に、希望をもち続けて歩むことができるのです。ですが、人は弱いもので、すぐに挫けて神様から離れて彷徨ってしまうのです。そんな時、信仰を共にする人々によって、支えられ、強められることができるのです。ヘブライの人々に対して、各々が希望を持ち続けて歩めるように、「同じ熱心さ」を求めているのです。

 わたしたちは、どんな神様を信じているのでしょうか。絶対的な信頼を持って、希望につながる神様を信じているのでしょうか。また、日々の生活に密接に関係するものとして信じているのでしょうか。実際の歩みの中(生・活)きてこない信仰は、無に等しいものであり、役に立たないのです。せっかく大いなる業を成してくださる神様に出会えたなら、それを自分から捨てるようなことをせず、どこまでも信じてみることが大切なのではないでしょうか。信じていく中でこそ、神様からの多くの恵みを知り受け取ることができるのです。それは、すぐに現れるものではないかも知れませんが、どこまでも希望を持ち続け、信じ続けて行く時にわかるのです。
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