日本基督教団 西神戸教会月報
2006年11月号

                   
 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあ
なたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなた
たちはこの山で神に仕える。」
《出エジプト記3章10・11節》

 わたしたち人間は、神様を基準に考えるとそれぞれが大切な役目を持って、この世に命を与えられ、生かされているのです。しかし、そのことを忘れてしまうとき、あらぬ方向に進んで行ってしまうのです。神様の願いと人の思いとの違いが、そのことをもたらしてしまいます。

 イエスは、「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。…《中略》…今満腹している人々、あなたがたは不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っていてる人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6:21〜25)と語られましたが、ここに人の思いと神の思いの違いがあるのです。人は、神様から与えられているもので満足できず、贅沢になり「もっと」と願い自らで不幸な歩みへと進んで行くのです。神様が"今"与えてくださっていることは、十分なものであるはずなのに、人はそれに気づかずに生きてしまっているのです。この世を生きるということは、苦しみや悲しみや痛みを避けることはできないのです。しかし、それは、神様によって必ず大いなる喜びへ繋がるものでもあることを聖書は語るのです。"今"という時が与えられていることが、どれほど大切なことであるのか、ということを忘れてしまっていることがあるのです。大切な時は、良くても悪くても与えられているだけで幸いなことなのです。それをどのように受け止めることができるかで、その人の生き方が全て決まってくるのです。病の中にあっても、苦しみ・悲しみの中にあっても、喜びの中にあっても希望を持って歩みを進めて行くことができるのです。

 本当に笑うためには、時として苦しみや涙が必要なこともあるのです。ドイツの作家ゲーテも「歓びには悩みが、悩みには歓びがなければならない。」といっています。歓びを重ねても、その歓びはなかなか大きくならないけれども、悩んだ末に得た歓びはどんなに大きいことでしょう。また、悩んだあとには歓びがあることを信じるから悩めるし、悩みが深くても歓びを思えばこそ、いとわず悩めるのです。そう考えていくとわたしたちに与えられているものは、全て良きものとなってくるのです。

 モーセは、神様から一方的に選ばれて、多くの苦しみを負う事になりました。しかし、その度に神様がモーセに助けを与え、進むべき道を示されました。モーセは、神様を信じ、どんな中でも共なる神様によって自らの役目を果たしたのです。
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