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「シオンよ、恐れるな
力なく手を垂れるな。
お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
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《ゼファニヤ書3章16・17節》 |
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今教会では、アドベントの時を過ごしています。クランツのローソクに火が灯り、一本ずつ増えていくの中で、わたしたちの心がクリスマスへと向かって行きます。しかし、そのクリスマスとはどんなクリスマスを待ち望んでいるのでしょうか。この世のクリスマスは、華やかで賑やかに彩られているものであり、この世の欲望の満ちたものとなってしまっています。主イエスの誕生した時代は、闇に包まれていました。ゆえに、救い主の誕生を心より待ち望む多くの人々がいました。そんな中でイエスは誕生しました。しかし、多くの者は、それを認める事ができませんでした。何故なのでしょう。それは、今クリスマスを待ち望む姿と似ているのではないでしょうか。多くの者が求めた救い主と、神様の与えた救い主とが遠く隔たっていたからです。そこに本当の喜びを見いだすことができなかったのです。馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子を救い主として受け入れられなかったのです。マリヤとヨセフは暗い夜に旅をして宿るところがなく、馬小屋でイエスは誕生しました。羊飼いへの知らせも羊の番をして野宿をしていた夜でした。博士たちも夜に星を眺めていて、しるしの星を見つけました。すべてが夜の闇の中での出来事でした。その闇の中で光は、輝いたのです。暗い世にあるにもかかわらず神様の愛が輝くのです。「地には平和、御心に適う人にあれ。」と天使は告げました。飼い葉桶の中で生まれた乳飲み子の歩みに心を寄せるものだけが、愛を知ることができるのです。その神様の愛を受けた者1こよって、地に平和がもたらされるのです。何の力もない乳飲み子が救い主として世に示されたのです。しかし、今に至るまで平和はもたらされていません。どうしてなのでしょう。それは、わたしたちのクリスマスが、世の人々と同じクリスマスの喜びを求めてしまっているからではないでしょうか。今年のクリスマスが「地に平和」をもたらすような、愛に満ちたものとして迎えられたら幸いです。ゼファニヤ書にも記されているように、神様を信じることは、いつも希望と愛とカに満たされることなのです。罪と過ちに満ちた民のただ中に、主は来てくださるのです。闇の世を嘆くのではなく、一歩を踏み出して行くことが大切なのです。
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