日本基督教団 西神戸教会月報
2007年2月号

                   
日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
ルカによる福音書9章12・13節》

 今 私たちは、日常の生活で食べる・着る・住むこと等で必要を欠くことがあるでしょうか。イエスは「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ6:25〜)と語られ、自然の中で神様に養われている空の鳥と野の花を見るように勧めます。神様は私たちの気付かないところで命を養い、豊かな恵みで満たしていてくださっているのです。その養いの中にあるにも関わらず、そのことをいつの間にか"当たり前だ"と考えてしまうようになっているのです。神様から与えられているもの(物・者)の豊かさに気付かなくなってしまっているのです。だから、必要が満たされているにも拘わらず、それ以上のものを求めてしまうのです。今の自分に満足していますか。あるがままの自分を受け入れることのできないのは何故でしょう。そこには、誰かの何かの価値観が押し付けられてしまっているのです。そんな価値観を神様は、打ち壊してくれるのです。神様から与えられている命の素晴らしさへとわたしたちを導いてくれるのです。そこにおいて、必要以上のものを求める必要はありません。「わたしの恵みはあなた
に十分である。」《IIコリント12:7〜9》。それぞれに与えられている賜物によって、それぞれが相互に補い合い、愛し合いながら歩めば、全てのものから解放されていくのです。

 聖書は、私たちの思いや価値観を打ち破る奇跡の業を記します。たった五つのパンと二匹の魚で、5千人の食べ物を満たし、さらに残ったパン屑を集めると、十二籠もあったという計算の合わない出来事が記されています。そこに働いたのは、イエスを通して働いた神様の働き以外の何物でもありません。人間のすること・考えることは、いつも限界があります。しかし、神様の業は人間の限界を越えた計り知れない出来事です。その神様の語られること、為されることを受け入れることができれば、何と幸いなことでしょう。この世において、どんなに苦しく・悲しいことの中にあっても、神様が命を与え、共に歩んでくださっていることに気付くことによって、生きるカと希望が与えられてくるのです。使徒パウロも自分の"とげ"を取り去って欲しいと願いましたが、逆にそれが大切なことであることを知らされるのです。そこで彼は取り去ってもらうのではなく、それを受け入れて歩むことへ向うのです。私たちを生きるに苦しくしているものは、人間の偏った価値観であり、私達自身の中にある様々な欲望なのではないでしょうか。"今ある命"に感謝し、"今の自分を受け入れ"必要を満たしてくださる神様を見出して歩む時、私たちの歩みは軽やかになるのです。必要な物は、そんなに多くないのです。何故なら、神様は五つのパンと二匹の魚で5千人を養われるのです。人は、計算をして無理という結果を出し、養おうともしないので、解散させようとするのです。それでは、何も起こり得ないのです。必要を満たされる神様を信じて歩むことによって、道は必ず開かれるのです。
BACK NEXT TOP HOME