日本基督教団 西神戸教会月報
2007年3月号

                   
すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。
《ルカによる福音書9章35・36節》

 わたしたちは、"今"受難節の時を歩んでいます。この"時"の意味ををしっかり捉えて歩むことができた時、イースター《復活日》を心より喜んで迎えることができるのです。人は、苦しいこと・悲しいこと・嫌なこと等の闇に思われることを遠ざけたり、避けたりします。しかし、その部分がとても大切なのです。闇の部分、暗い所を避けていても本当の喜びはやって来ません。そのただ中で、神様に出会うときに、新しい自分を発見し、新しい自分と出会うことができるのです。そこから、それぞれの人生が変わつてきます。この世にこだわり、この世の価値観に捕らわれていた者が、それらのもの(物・者)から解き放たれて、神様から与えられた豊かな命に生きることができるようになるのです。

 イエス・キリストは、この世の人々の望むメシヤ像とは、遠く掛け離れた存在でした。しかし、それが神様のみ心だった事を聖書は語ります。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」との声が聞こえたのです。その声を聞くことができるか、否かで人の歩みは大きく異なるのです。カや富や知識や正しさに頼る人の生き方に対して、イエスの歩みは全く異なった生き方を貫き通したのです。その最大の出来事が、十字架と復活なのです。十字架と復活を含めて神様の秘められた出来事を歌っているわたしの好きな讃美歌《575》"球根の中には"をご紹介します。

1.球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から 命はばたく。
 寒い冬の中 春はめざめる。その日、その時を ただ 神が知る。

2.沈黙はやがて 歌に変えられ、深い闇の中 夜明け近づく。
 過ぎ去った時が 未来を拓く。 その日、その時を ただ神が知る。

3.いのちの終わりは いのちの始め。おそれは信仰に 死は復活に、
 ついに変えられる 永遠の朝。その日、その時を ただ神が知る。

 わたしたちの囚われているもの(者・物)は、一体何なのでしよう。囚われてしまうことで、生きることを苦しくしている事が沢山あるのです。神様は、そんな囚われから、わたしたちを解放するために、主イエス・キリストを世に送り、共に生きる者としてくださったのです。わたしたちは、"これに聞け" "この人を見よ"と語られる神様のみ声に耳を傾け、その愛の中を歩む時、そのままの・あるがままの自分が、神様が備えてくださっている、本当の幸いを手に入れることができる事を知るのです。
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