日本基督教団 西神戸教会月報
2007年4月号
復活の主イエスは、弱さを担ってくださる方であり、弟子たちが女性たちに聞いた復活の出来事を信じることができず、"たわ言"としか思えなかった中で現れてくださいました。女性たちは、空虚の墓の中で、天の使いに語られた言葉によって、かつて主イエスと共に歩んだ日々へと導かれ、その時語られていた言葉を思い出し、復活の主に出会わなくても、空虚の示す出来事が主の復活を表すことであることを信じることができました。同じ様に主イエスと共に歩んでいたのに、その言葉を"たわ言"としか受け取れなかった弟子たちと女性たちとの歩みの違いは何でしょう。わたしたちも他者と共に歩んでいる時、どんな歩み方をしているか問われています。うわべだけ、表面的な付き合いをしているなら、信じることはできないでしょう。また、自分の立場でしか人と出会っていなければ、その思いにはいたれません。主が語り続けられた、"神を愛し、隣人を愛せ"とは、人としっかりと向き合う中で示されてくるのではないでしょうか。その出会いは、人の人生を決める程大きなものでもあるのです。どんな人にどんな風に出会うのか。女性たちは、イエスに救われ、赦されたことにより、ずっとイエスを慕い共に歩み、イエスを見続けてきました。絶望の中で十字架の上での死も葬りもすべてを受け止めてきたのです。そんな彼女たちは、死に覆われた暗い墓より、復活の主を知らされて、新たな命を受け入れ、喜びと希望へと向かって歩み出しました。闇に光、死に命を与えたもう神様の業によって命を受けたのです。 一方、信じることができなかつた弟子たちは、肩を落とし、絶望に沈んだ気持ちでエマオに向かって旅をしている中で、主が共に歩んでくださったのです。聞いても信じることができない者に現れるという形で自らの復活を教えてくださったのです。何と愛と優しさに満ちた出来事でしょう。しかし、それでもすぐには気付かないのです。彼らが気付いたのは、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」時でした。彼らもかつて様々な場面で共に食事をした事を思い出したのです。そして、それはパンを裂いて分かち合ってくださる姿だったのです。二人は、一緒に歩いている時、「わたしたちの心は燃えていたではないか。」と語り合うにいたるのです。復活の主に気付くことで再びエルサレムへと歩み出したのです。主との新しい出会いをとおして、心燃やされ、力と希望を受けて、新たな命に生かされるものとなったのです。何とうれしいことでしょう。 |
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