日本基督教団 西神戸教会月報
2007年6月号
物の価値観は、人によって様々です。その違いの中でわたしたちは、苦しんでしまうことが多いのです。ある一定の価値観を押し付けられてしまって、本来その物が持つ良さや大切な物を消し去り、奪い取ってしまうことがあるのです。ある一定の価値観は、あっても良いかも知れません(基本的なこととして〉が、絶対ではないことを知らなくてはいけません。時として、その価値観が間違っていることもあるのです。誰が何によって、そのことを決めるかは大きな問題なのです。主イエスがこの世に来た時、その価値観の中で十字架の道が示されていきました。この世は神様の価値観を受け入れることができず、イエスを十字架に掛けました。わたしたちにも有りがちなことですが、自分を否定されるようなことに出会うとそのことに拘り、固守し、守ろうとして、心を頑なにし、他を受け入れられず、攻撃的になっていくことがあるのです。主イエスは、この世の悲しむべき現実の中で、神様を愛し、人を愛することを大切にし、人のなすべき事とされたのです。愛によってしか、この世の再生は為し得ない状態となってしまっていたのです。 上記の聖書の箇所は、ペトロが足の不自由な男を癒し、立ち上がらせた事(3:1〜)ついてです。この癒しは、人々が価値なき者として、あるいは罪人として十字架に掛けてしまったイエスによって、為された大いなる働きが告げられているのです。詩編の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」(118編21節)を引用して『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』とイエスのことを表現しているのです。つまり家を建てる専門家は"要らない"と言って捨てた石が、捨てられた所でとても大切な役割をする石となったのです。誰もが考えもしなかった事が、神様の働きとして為されていくのです。イエスは、神様から大切な役割を与えられ、この世の歩みをなさいました。そのことによっで、新しい神様の価値観がもたらされたのです。そのことに気づいていく者が、自分たちの誤った価値観を捨てて、神様から与えられた新しい愛による価値観を得ることができるのです。「邪悪なこの時代から救われなさい」とべトロは勧めました。それは、全ての人が生きるに心地よい価値観、互いに愛し合うという歩みへと導かれて事なのです。 |
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