日本基督教団 西神戸教会月報
2008年2月号

                   
彼が、「主よ、信じます。」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしが世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
                                    《ヨハネによる福音書9章38〜39節》

 私たちは、日々の歩みの中で何を見ているでしょうか。ちゃんと神様が与えてくださっている恵みに満ちたもの(者・物)を見ているのでしょうか。日々不平・不満に満ちてつぶやいてばかりしてはいませんか。本当は、喜びに満ちたものが十分与えられているのに、自分の願望・欲望に塞がれて、与えられているものを見えなくしていることがあるのです。この世の価値観によって、求めるものを誤ってしまっていることに気づかされます。

 ほんの小さな、ささやかなものの中に神様の与えてくださっている愛と恵みに満ちているものが与えられています。日常何げなく歩む中、当たり前のように思って過ごしている生活のただ中に宝物は隠されているのです。それを見ることのできる者は幸いです。それを見いだすことのできない者は、自らが幸せをつかもうともがき苦しむのです。

 私が出会った大好きな詩《澤田直美くさわだなおみ)さん》に幸せについて受け取り直させてくれるものがありますのでご紹介致します。

 ☆幸せは…もらうものでもあげるものでもありません。
        ただ、心がかんじるもの そして、心で一育てるもの

 ☆どんなにがんばってもどんなに探しても
         気づかなければ 見つけられない。
    でも気がつけば 今のまんまで 自分のまんまで
         すっかり しっかり 包み込んでくれている。
    「幸せ」って 不思議だね。

 ☆暮らしの中に ころがっている ちっちゃなちっちゃな幸せの粒…
      見のがさないよに けとばさないよに
   大事につなげて ゆきましょね。

 主イエスは、この世に来られることによって、人々が神様の思いを受け取り違いしていることを教えてくれます。それに聞き従う者は、自らの命の意味を知り、より豊かに生きる道が与えられるのです。この世において誤った価値観の中で罪に満ちて歩み続けてきた者を神様の価値観によっで新たに生かすのです。今まで見えていた者と思っていた者がそれを見ることができなくなり、今まで見ることのできなかった者が見ることのできる世界が与えられるのです。この世の大切にしてきたものは、その意味を失い、意味を持たないと思われていたものが大切にされるのです。

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