日本基督教団 西神戸教会月報
2008年3月号
私たちキリスト者にとって、最も大切な時を迎えようとしています。教会のシンボルである十字架が示される時です。世の人々はクリスマス(イエスの誕生)に関しては抵抗なく、喜び祝っていますが、イースター(イエスの十字架と復活)となりますとなかなか認めることのできるものではありません。 世の人々が認めることのできるのは、自分たちの理解できる範囲の事であります。それ以上のことになるとなかなか受容することが難しくなるのです。「お前の王がおいでになる」事に関してもどんな王をイメージするのでしょうか。王というと力強く栄光に輝く王の姿、権威と権力に満ちた王の姿をイメージするのではないでしょうか。ところが、神様が世に与えられる王(メシァ)の姿は、軍馬ではなく、ロバの子に乗ってやってくる王なのです。力強い者としてではなく、弱々しい姿で表されているのです。イザヤ書53章にある苦難の僕こそが、神によって与えられる人の姿です。神様の与えてくださる出来事は、私たちの経験や考えを越えています。その出来事を通して、私たちは神様の世界に出会うのです。「そんなこと」と思うようなことの中に大切なものが、たくさん隠されているのです。この世の見えるものによる価値観ではなく、神様の与えてくれる見えないものによる価値観をしっかりと受け止め感じ取りたいものです。 イエスは、十字架に掛かる事を知りつつ、エルサレムの町に入りました。憎悪の渦巻く中に自ら一歩を踏み出すのです。歓喜の中で迎えている人々もやがて「十字架につけろ」と叫ぶようになることもご存じで、人々の中に入って行くのです。人々は自分たちの期待どおりではなかった救い主イエスを拒絶しました。立派な軍馬でなく、頼りないろばの子に乗ってエルサレムに入られる姿が、既に彼らの思いとは異なっていました。人は、自分の側でばかり物事を考えて、それからはみ出してしまうものに対しては、嫌悪感を示すのです。神様は、イエス・キリストを通して、そんな人間の我が儘な生き方にストップをかけるのです。イエスが大切にするもの(物・者)とは、どんなものでしょうか。この世が価値のないものとして捨て去っているものの中に価値を見出し、大切に愛してくださるのです。大きいもの・強いもの・高いもの・広いものを良しとしている人々に対して、小さいもの・弱いもの・低いもの・狭いものも大切であることを教えるのです。イエスの十字架は、痛く、苦しく、悲惨なものでした。しかし、それが神様によって栄光の復活へと導かれるのです。 |
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