日本基督教団 西神戸教会月報
2008年5月号

                   
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください。』というのか。
                                                                     《ヨハネによる福音書14章9節》

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
                                                                     《ヨハネによる福音書14章13節》

 私たちは、何を見て、何を感じて、何を受け止めて歩んでいるのでしょうか。日々の生活の中でこの世の価値観に振り回されて、神様が与えてくださっている大切なものを受け取り損ねてしまっています。そのことが、神様との距離を広げてしまっていらのです。見なくてはいけないものを見ず、受け取らなくてはいけないものを受けらず、与えられないものを望んでしまっているのです。神様が与えてくださっているすばらしい世界を味わうことができず、自分の満足する世界を求めてしまっているのです。そこにおいての嘆きや苦しみや悲しみは大きく、自ら生きることを困難にしてしまっているのです。

 最近のニュースで多く報道されていることは、自殺や他者を傷つける事件です。命の大切さが損なわれ、人間の罪深さを感じさせられる世界となってしまっています。たった一つしかない命、かけがえのない命が奪われ、失われています。本来人間の自由にできるものでない命を簡単に意のままに操ろうとしている人間の姿があります。命を与え取られるのは、神様であることを知る時、与えられている命の中で生きる喜びと希望、さらには勇気が与えられてくるのです。せっかく神様から頂いた命を大切に豊かに生かしていきたいものです。私たちは、神様の思いを受け取れずにいます。実は、イエスと共に生きた弟子でさえそうであったということを:聖書は教えてくれます。イエスは、フィリポに「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」と嘆かれました。私たちも神様を信じる事の中で同じ過ちを犯してはいないでしょうか。神様は人を愛してくださっているのですから、与えられるものは良いものばかりのはずなのです。それを「良い」と受け取れないのは、私たちの思いが強すぎるのです。この世の価値観に染まり、人に左右されて生きる私たちは、神様の与えてくださっている大切なものを失っているのではないでしょうか。イエスは、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と語られました。それは、私たちの思うように叶うのではありません。神様の思いに適ったものとして叶えられていくのです。そのことを受け止められる人は、主イエスの名によって祈り、神様の御心を問いながら歩みを進めていくことができるのです。そして与えられた状況の中で神様の愛を見出し、受け取るのです。主イエスの名によって共に祈り歩みましょう。
BACK NEXT TOP HOME