日本基督教団 西神戸教会月報
2008年6月号

                   
わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。
                                                                         《ヨハネによる福音書4章35〜38節》

  今、私たち人間は、神様から与えられている一つ一つのものを大切に受け止めているでしょうか。私たちの思いとは異なる時期に、異なるものが与えられてくることもあります。それは、私たち人間の決めるべきものではないからです。それを決めてしまうために、受け取れないことやできないことに心奪われて、そこにある大切な神様からのプレゼントを受け取り損ねてしまうのです。私たちに与えられているものは、私たちの思いや行いによって決まってしまうのではなく、全てが神様の思いと計画によってなされて行くのです。その中で私たちは、生かされているに過ぎないのです。自分というものの存在意識が強すぎると、この世での歩みが思いどおりに行かず、当たり前のように苦しみや思い煩いで一杯になってしまいます。私たち人間は、この世で生かされている中で、それぞれに応じて賜物が与えられており、役割と責任が与えられているのです。その事に気づく時、世を生きる大切な命の存在を知ることができるのです。私の命、あなたの命、全ての命が、神様から与えられたこの世に一つしかない、かけがえのない大切な命なのです。その命が出会い、交わり、共鳴して行く中で、生きることの喜びが与えられてくるのです。出会った命は、異なりの中で互いが支え合い・助け合い・補い合い・愛し合うことによって、大切な存在意味を知るのです。

 イエスは、人々が『刈り入れまでまだ四か月もある』(35節)と言っているのに対して、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」と語りかけて、人の思いと行いの違いを明らかにしていきます。観念的あるいは習慣・知識等に頼って生きている人間の弱い部分です。現実を見て、そのことに応じて歩みをなして行くことや、今ここで大切にされていること(もの)を受け止めることの難しさを感じます。私たちが大切にするもの、しなくてはいけないものは、何なんでしょう。今、神様に生かされているという事実ではないでしょうか。その歩みのただ中で神様が共にいてくださり、愛と恵みを与えてくださっているという現実です。神様の与えてくださっている出来事を、人の思いと計画の中で見ていくのでなく、神様の御心の中で見ていくことが大切なのです。この世に与えられた私たちの大切な命が、他者との関わりの中で『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ことになっても「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」ことのできる関係作りを築けてゆければと願っています。
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