讃美歌21-495「しずけき祈りの」日本基督教団讃美歌委員会
教会の画像 修養会
2009年度女性会主催による修養会が、今年も以下の通り開催されました。今回は日本キリスト教団塚口教会の山崎英穂牧師をお招きし、『隣人を支える』をメインテーマとしてメッセージをいただき、その後、各部会に分かれ、山崎牧師にも適宜グループに入っていただき具体的で実践的なご助言やご提案を頂きつつ、参加者(36名)の感想や平素の信仰の分かち合いを行い、とても有意義な一日が与えられ感謝でした。詳細は下部コメントをご覧ください。
日時 2009年10月17日(土)10:30〜14:00
聖書 ヨハネによる福音書15章1〜5節
讃美歌 419番 「さあ、共に生きよう」 464番 「ほめたたえよう」
宣教 「主の枝として生きる」 山崎英穂牧師
新共同訳聖書: ヨハネによる福音書15章1〜5節 (日本聖書協会)
◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
I 部 礼拝メッセージから: 
1.人間とは神の作品である (創世記1章1節〜2章25節)
 人は何故生きるのか、生きなければならないか。 人と人との出会いは人間の意思や計画を超えた神秘と愛による共同体である。 夫婦愛で繋がっている。教会の関係も同じで、イエスさまの愛で繋がっている。

2.存在の美しさ (マタイによる福音書6章25節〜34節)
 空の鳥、野の花は沈黙の教師である。(デンマークの思想家キェルケゴール(Kierkegaard)の言葉より)
小さな生き物や道端の花でも役に立たないものはない。 人間社会だけが役に立たないものを排除してきた。

3.教会とは −−苦難と慰めの共同体 (コリントの信徒への手紙二 1章3〜7節)
 一人ひとりが背負っている苦難は異なる。 神はあらゆる苦難に際し、慰めを与えて下さる。 私達も互いに支え合う事。 苦しみが大きければ大きいほど、慰めは豊かである。 苦しみ = 恵みの時と捉えるように。

4.祈りの包囲網 (フィリピの信徒への手紙1章2〜4節)
 真実に祈る者は自分自身の為の祈りであっても個人を超えて全体の祈りへと高められる。 祈りはその性質上、自己を超えて神と人へと導いてゆくもので、個人の祈りも連帯の祈りである。

5.最善はなお将来に (ルカによる福音書1章1節〜2章38節)
 人は肉体的に衰えても精神面では歳と共にいつまでも成熟してゆくものである。 「われと共に老いゆけよ。 最善はなお将来にあり」 (英国の詩人ブラウニング(Robert Browning)の詩より)

6.接続
 「私につながっていなさい」のみ言葉に支えられ、希望が与えられる。 たとえ代が変わっても神様の恵みは続く。 よい接続をしなければならない。
各部会(グループミーティング)の感想など
(メッセージ)
○レジュメを用いてのメッセージはとてもわかりやすく、引用された聖句や参考資料は私たちの生活の中での物事の受け止め方等に参考になった。
○「祈り」についてが心に残った。 どんな時でもどんあ場所でも祈る事が大切。 また個人の祈りも神様と繋がっている祈りであって、他の人への祈りに広がってゆく事を知り、心が和らいだ。
○牧師は常に信徒の為に祈っていて下さる事にに感動した。
○ブラウニングの詩に安らぎを覚えた。これから先にどのような事が起ころうとも、最善を為し(たま)い、共に歩んでくださるイエス様を信じて歩みたい。

(隣り人を支える、また支えられる)
○病の時、困難な時、教会員の励ましや支え、祈りが嬉しかった。
○相手の気持ち、立場を考えて支え合う。 相手を思っての行動は必ず気持ちが通じると信じる。
○その人の為に祈る事が大切。 「祈る」と言ったり、便りに書いたりしたら必ず祈る事。
○礼拝だけで帰られる方への声かけが足りないのではないか。 しかし、それぞれの方の事情もあるので、その思いも大切にしたい。
○遠方の方々、交通の便の悪い方々が礼拝に出席しやすい方法を今後の教会の課題としたい。
  (塚口教会では助け合い委員会があり、ボランティアが保険を掛けて送迎している。)

(全体会における山崎牧師への質問の中から)
○「とりなしの祈り」について
 「とりなしの祈り」は次元が異なる神様と人との間に入って、イエス様がとりなしてくださるもの。 旧約聖書には人がとりなしの祈りをすると、記してある箇所もあるが、個人に対しての思いや願いがその人を通して「イエスの御名によって祈る」ことにより、イエス様がとりなして下さり、神様に届けられることとになる。
   
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